南濱墓地 墓石調査 Aブロック
まずは配置図を作成しました。
各列をA~Vとしてそれぞれの墓石に番号をふって A-3 のように区別します。(あ~面倒だなあ)
A-1 右端の石碑には、異例にも長文が四面に彫られています。読むのはツライなあ。
右側面だけでも
●愛女名●二姓龍田難波産也幼而才敏異於衆児自六
(死んだ)娘の名は●二、姓は龍田、難波なにわの生まれ、幼いころから賢くて他の子供と違っていた
歳好読書能●書琴瑟成章一日罹●●而医薬上救永訣
6歳から読書を好み、書をたしなんだが、ある日病気にかかり薬も効かず亡くなった
遺言曰詩曰無非無儀無父母詒罹嗟父母無憂我死聞者
皆涕泣言天●才児可貿●其●以易之矣其愛惜於人如
此享保甲辰五月十九日生辛亥七月十九日卒年八歳葬
于北濱之地作一絶以述哀情云
続けて七言絶句があります。
窈窕女児吟読声
餘音触耳愛情清
一朝嬰病命頓絶
契闊死生足誦名
北浜の儒家の娘が8歳で病死し、悲しんだ親が建てたものです。享保13年7月19日(1728)
A-2 中央はその子を亡くした親である龍田善達の墓
裏面には
此稱之京師戌子之災萬室壊火遍燼陰●●●●
●朊間行予遇諸塗勤寄予宅而上●●年●
予到●而速来訪即道蓍?而上措何圓宿昔門
人早瀬某来訃曰今●六月廿三日嬰疾而上
禄享年五十八一大夫子甫六歳一女三歳●
人主後事門生若千人合謀経紀将伐玄珉●
傳姓名請為之誌乃題其墓曰龍田善達甫●
云享保十九年甲寅歳也
右端の碑の建立から6年後になります。
この墓について「井上正雄 大阪府全志」に記載ありとのことで図書館で調べました。
濱の墓は同寺(源光寺)の前にあり、大坂七墓の一なり。即ち行基の始めし三昧火炕にして
当時行基は土木石の三仏を造りて安置し、本邦火葬所の嚆矢なりといふ。傳へいふ、行基の
平生寺に住せし時、其の僕六助及び長兵衛の二人をして火葬の取扱を為さしめしに、二人の
僕は後別れて東坊・西坊となりて、明治維新後に至るまで継続したりと。六反六畝三歩の広さ
を有し、墓石累々として大家の墳塋少なからず、儒者龍田善達・斉藤鑾江・書家山本文龍・
佐々木専林・富島瑞峯等の墓も此にあり。
六反六畝三歩=約6500m2 = 80m四方となり、現在は約1500m2=40m四方でずいぶん狭くなったのです。
赤字の5名の墓は見つけたので紹介します。
A-3 左側の石碑には「大坂三郷大火 五十回忌追善塔 焼死水死精霊」
裏側には「明和九壬辰年建之」とあります。そこから50年遡った享保9年(1724年)に起こった大火では
堀江から出火して船場・堂島・曽根崎・天満・長柄・谷町・島之内・千日前まで広がり
焼失家屋1万1765軒、死者293人でした。(規模の割に死者が少ない)
この石碑はそれを忘れないよう50回忌に建てたもの。
同じ大火の13回忌の石碑がMブロックにあります。
石碑の後ろにヘンなものが見えています。古い墓石を巻き込んだ大木の切り株なのです。伐採されてまだ数年。
もとあった墓石のそばに生えた木が生長してこうなるまで一体どれだけかかったのか。
その頃からすでにこのあたりは無縁墓だったのでしょう。
A-4 右側は結構おおきな墓石で、4面すべてに8名づつ合計32名の戒名と没年があります。
ほか2面あり
最も古いのが宝永7年(1710)最も新しいのが文政5年(1822)110年間にわたります。
どういう順序なのかサッパリわかりません。次々に書き加えたわけではなく、一度に彫ったように見えます。
もしそうなら、この墓を建てたのは文政5年以降になります。
商売がうまくいって金持ちになり、ようやく先祖の墓を立派にした、そんな風にも思えないナゾです。
A-5 左側は質素な墓で、下半分は風化で読めなくなっています。(草書も実は読めませんが)
中央の5文字は残っていて、上から「何礼木やふ●●」=「かれきや」と読んでみました。
曽根崎新地の女将なのでしょうか? 女文字の墓石はめったに見ません。
裏面には 享保十● 六十● と数文字だけが残っています。
右から
A-19 首を失った地蔵様と台座・敷石が元から一緒だったかどうかは上明です。
残念ながら文字はどこにも見当たりません。
A-18 風化剥落が進み、正面上の「釈」の右側に文字があるのですが判別できません。
左下には「妙」の1文字だけが残ります。
注目したのは台座正面の文字です。 碁盤屋●●●
A-17 新寂林道の墓は大塩平八郎の祖父政之丞が早死した子供のために建てたもの。
A-16 その左は平八郎が先祖のために建てた墓。
この2つは竿石と台座が合っていません。整理のときに別のものに置き換わったのでしょう。
A-15 さらに左は政之丞が世話になった塩田鶴亀助夫婦の墓。
鶴亀助についてこんな記述があります。
按スルニ初メ政之丞生レテ三才同藩親戚塩田鶴亀助ニ養ハル、
鶴亀助隠退後政之丞ヲ携ヘテ大坂天満大塩助左衛門ニ寄リ病ヲ養フ、
宝暦十一年(1761)巳九月六日大塩氏ニ没ス、
逾テ三年明和元年(1764)申十一月二日鶴亀助室又没ス、
共ニ大坂南浜三昧院大塩家墓地ニ葬ル、
政之丞孤トナル時ニ年十二歳、政之丞即チ助左衛門ニ養ハル、
助左衛門安永二年六月廿六日没ス、
政之丞大塩氏ヲ継グ、即チ先生ノ祖父也
さて鶴亀助夫婦の墓は誰が建てたのでしょう。
A-16 大塩平八郎が先祖のために建てた墓石です。これは裏面。
嗚呼歳月久●碍推●盡●其●字上可少●●
●余●愚子●上認先学之●左之●●●斬次
叙●殿謚号血刻小嶋其春岳我高祖父喜内本
覚其●助左衛門耀山我祖父政之丞覚信我
叔父養千石川氏吉次郎也
文政元歳以戌寅秋七月 大鹽平八郎誌● (鹽は旧字体)
実はこう読むそうです。http://www.cwo.zaq.ne.jp/oshio-revolt-m/kamata2.htm
オリジナルの拓本は「なにわ・大阪文化遺産学叢書7」にあります。(風化が進んでいます)
鳴呼歳月久旧砕摧壊尽矣其文字上可少概見
也余竊患子孫上認先塋之所在乃換旧以新次
叙各厥諡号而刻爾焉其春岳我高祖父喜内本
覚其弟助左衛門耀山我祖父政之丞覚信我
叔父養于石川氏吉次郎也
文政元歳次戊寅秋七月 大鹽平八郎誌且建
1818年で、大塩の乱(天保8)の19年前、平八郎が25歳のときになります。
父敬高は寛政11年、平八郎が7歳のときに死んでいる。なぜ父の名前をここに彫らなかったか?
寺町成正寺に墓があるのになぜ南濱にも墓石を建てたのか?
この墓石は本物か、ふと疑問に思いました。
その答えはありました。ここ
大塩家の墓がここにあることについて成正寺先代有光友逸師によれば
「南浜は荼毘所があった共同墓地であるから、成正寺の墓地が狭隘であるため
建碑の余地がなかった時に建立したものであろう」(大塩研究十六号所載)とされている。
正面にはこうあります。
春岳院清空 大塩喜内(三代)
本覚院上二日性 大塩助左衛門(五代)
耀山院誠意日凉 大塩政之丞(六代)
覚信院秀雄 石川吉次郎(政之丞の子)
側面にはこうあります。
春 寛延二年三月廿九日
本 安永二年六月廿六日
耀 文政元年六月朔日
覚 文化二年十二月十五日
この4人の名前の墓が寺町成正寺にあるでしょうか? →おまけ参照
竿石と台石の違いが大きく、サイズもバランスが悪いです。どうも上下別々の墓石をあわせたようです。
そういえば左側に見える墓はあきらかにヘンで、竿石がハミ出ています。
表側にまわってそのヘンな墓石を見ると
享和元年9月22日 新寂林道信士 大塩政之丞の子
側面には
大塩政之丞建
右端は A-15 塩田鶴亀助夫婦の墓です。
ネギ坊主の墓がエライことになっています。右2つは原形を保っていますが、右から3番目は竿石が落ちています。
左端は台座が大木の根元に飲み込まれて竿石が落ちています。足元にあるネギ坊主がどちらのものかわかりません。
台座には
A-14 右端 正面 享保元年 九月朔日
檀誉梅阿彌香林法子
右側面 基昌庵主四十一世
A-13 戒名などのパターンから考えて基昌庵のものではありません。
2番目 正面 聞道●●●●●
文化十五午戌
右側面 西?中興
f 3番目 蓮華座の上面にはネギ坊主かあるいは円柱の竿石があったようです。
蓮華座石自体は八角?
g このネギ坊主はA-12から落ちたように見えたのですが、違います。
ネギ坊主の上半分がスッパリありません。花崗岩なので自然に割れたのではなく、故意に切ったのでは?
A-12 ネギ坊主はなくなり、台座自体は大木に飲み込まれています。
左端 正面 寛政六甲寅年 七月二十八日
願阿彌順碩法子
右側面 基昌庵室四十四世
左側面 順●建之
台座の形状からすると右端もネギ坊主が乗っていたようです。それが左端に見えるものかも知れません。
3つの台座には
A-10 右端 正面 安永元甲申年八月廿六日(1773)
心誉欽阿彌浄安法子
右側面 基昌庵室丗九世
左側面 浄雪建之
台座の下は蓮華座になっています。
A-9 中央 正面 享保九甲辰年 十月六日(1724)
一誉心阿彌浄雲法子
右側面 基昌庵主四十世
左側面 香林建之
台座のさらに下の石の正面に「石野」の文字が見えます。多分別の墓のものだったのでしょう。
A-8 左側 天明元年七月六日(1781)
欽誉厥阿彌信悦法子
右側面 基昌庵室四十二世 信悦
左側面 昌順建之
台座の下は蓮華座になっています。